プロローグ
気が付けばすっかり春だった。
今年は例年より気温の低い日が続いていた。桜の花が散るスピードはゆっくりで、綺麗な状態を長く楽しむ時間がたくさんあったのに、私はそのことから目を背け、いつもより下を向いていた時間が長かったように思う。
ソメイヨシノはもう散ってしまったけど、枝には花が咲いた跡がまだ残っている。あとを追いかけるように八重桜が咲き始めた。
足元には、散ってしまった花びらが集まって出来上がったピンクの絨毯が広がっている。地面の土が少し透けているため、ところどころ茶色もまじりだがとてもきれいだ。とっておきの瞬間を残すためにカップルが代わる代わるやってきて写真を撮っている。
ここは毎年香澄と一緒にお花見を楽しんでいる場所なのだが、今年は一人で来てみた。私の勝手な都合で香澄への連絡をしばらく控えていたため、待ち合わせの約束が出来なかったからだ。
けれど、ここで待っていると香澄がふらりとやってくるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、スマホをそっと胸に当てて、咲き始めた八重桜の花を見ていた。
私のスマホには、香澄に当てた未送信のメッセージがある。たった一言の短いメッセージだが、なぜ送信できずに放置してしまったのだろうか。今、とても深く後悔している。
昨年の夏の終わり頃から、香澄も私も新しい仕事に追われて次第にメッセージのやり取りが途切れがちになっていった。そして11月が過ぎ、年が明けて、また花見の季節がやってきた。
返信が遅い私とは違い、香澄はメッセージを見たら どんなに忙しくても すぐに返信をくれる人だ。
送ることが出来ずに残してあるこのメッセージを今更送っても、もう遅い。今回だけは彼女からの返信はどんなに待っても届かないという事実を、まだ私は受け止める自信がなかったのだ。