作品を書いた経緯
春の思い出は悲しいものが多く、また、「桜」にまつわるものがほとんどです。この物語は桜が満開の春に経験した出来事を物語にしました。パートナーが亡くなった日の夜、雨上がりの月明かりに照らされた夜桜を見ていた時のお話でほぼ実話です。
当たり前の生活を送っている時は、その当たり前の日々は実はかけがえのないものだとは気づけない。あたりまえを失ったときに気づいても、また日々を過ごしているうちに忘れてしまう。あたりまえは特別な事。たまにはそう思える自分で在りたいです。
パートナーが亡くなって、来月末に一年を迎えます。おかげさまでなんとか悲しみを乗り越えつつあります。生かされている自分は、人生を続けられなかった人のために、たくさんの経験や感情を味わって生きよう。好きな事にできるだけ時間をつかおう。また、忘れないでいるために物語として残すことにしました。
本編
病院にて
あさってから四月なのに、今晩はとても寒く吐く息がほんのり白くなる。私は上着を着ることを忘れて病院の裏口でタクシーを待っていた。
なかなか来ないタクシーを待っている間、月明かりに照らされた背の高い桜の木を眺めていた。
少し前まで強く降っていた雨は止み、根元にできた大きな水たまりに下弦の月が映っている。
輝く太陽の下で見る桜は少女のようなふんわりとしたイメージで初々しい感じがするが、目の前の夜桜は大人っぽさを纏い凛と立っているように感じる。
今年も一緒に花見ができなくて残念だなと思っていたのは昨日のことだった。
お見舞いのために病院の正門から面会の受付に向かう私は、車いすに乗った男性とその車いすを押している看護師さんとすれ違った。
許可されたわずかな外出時間で見頃になった川沿いの桜を見に行くのだろうか。
笑顔の二人はゆっくりと私から離れていった。
私も病室にいる彼を連れ出し、少しなら外出してもいいのかな。
看護師さんに聞いてみようか。
いや、無理に決まっている。
なぜなら面会が解禁になったばかりで、外出なんてとんでもないといわれるだろう。
会うことが許された時間もたったの十五分間だ。近いうちに外出許可が出るとしても、そのころには今年の桜は終わっているだろう。
ふぅ・・。
小さく息を吐くと、彼と久しぶりに交わした昨日の会話と窓から二人で見た桜の映像うかぶ。
でもすぐに他の記憶と一緒に水たまりの中の月に吸い込まれていく。
現実に引き戻された私の左側には、病室から運び出した自分一人では抱えきれない沢山の荷物が載せられている処置ワゴン。
パソコンが入った黒いバッグを右手に持ち、ショルダーバックをいつものようにタスキ掛けにして、左手には彼の杖を持っている。
なんだか、ダサい格好だな、私。
それはさておき、こんな遅い時間に何故、私は一人ぼっちでタクシーを待っているのだろうか。彼はまだ病室で看護師さんに処置をしてもらっているのだろうか。それとも、退院の手続き中だっけ?
いえ、違う。
彼が一緒ではない理由をやっと思い出した。私がここへ来る前に、彼は黒い車に乗って別の場所へ移動したのだった。
病院の裏口には夜勤の警備員さんがいて、桜を見ている私を不思議そうに見つめていた。ずっと前から彼の視線には気づいていたのだが気づかないふりをしていた。
今、あなたの視線に気付いたのよという雰囲気を漂わせゆっくりと彼の方を見た。
私と目が合ってバツが悪かったのか、ゆっくりと警備室へ入り分電盤のような機器を触ったり防犯カメラの確認を始めたりする。
「ほんとに、タクシー来ないな。いま何時だろう」
時計を見てここへ来てから四十分以上も経っていたことに気づいたが、動く気にもなれず、再び桜の木を見つめた。
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