ショートストーリー/約1400文字
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セミの声が急に聞こえなくなったことに気づいた夕暮れのこと。台風が近づいているせいなのか、真夏よりも強い蒸し暑い帰り道を急いでいた。
まだ半分くらいしか暗くなっていない空を眺めるために立ち止まった。
暑いとはいえ「もう秋なんだよな」とつぶやいた時、ふと、彼はどうしているのだろうかと思った。あれからもう8年。きっと、素敵な人と幸せな人生を歩んでいることだろう。
私は、あれから誰とも続かなくて、今も一人だ。思いを寄せる人もいない。仕事に没頭していることを言い訳に、女を捨てているような毎日だから異性にモテることもない。
眉間にしわを寄せて、パソコンの画面を食い入るように見つめ、猫背でパンパンキーボードをたたいている。
別に怒っているわけではないけど、パソコンの前にいるとなぜか少しイライラしてしまう。最初は軽やかなタイピングを意識していても、気が付くと叩くように入力している。
あ~。
自分の置かれている現実、つまりこの先もきっと恋人なんてできっこないだろうということを再認識し、汗を拭きながら私はまた歩き出した。
・・◆◇・・
彼は私よりもずっと背が高くて、後ろから抱きしめられると彼の顎が私の頭のてっぺんに優しくこつんと乗っかる。
落ち込んでいるときも、嬉しいことがあった時も、怒っているときも、どんな時も。そっと抱きしめてもらった瞬間の温かさが心地よかった。言葉なんて要らない。
その温かさが永遠に続いて欲しい。そう思っていたけど・・・。
夏の風と秋の風がバトンタッチするちょうど今頃の季節に私たちはお別れをした。最後に聞いた彼の言葉は何だったのか、どんな表情をしていたのか。もう覚えていない。
ただ、とても幸せだった気持ちと背中の温かさだけは私の中に確かに残っている。
その彼が、イケメン俳優となって私の夢の中に現れた。正確には、夢の中の彼は間違いなく昔大好きだった彼なんだけれど、顔がイケメン俳優にすり替わっていた。
あの時のように、優しく微笑む彼は私を後ろから抱きしめる。
二人の目の前には綺麗な海。透き通った浅瀬の水の底には、なぜか色とりどりの花が咲いている。
綺麗だね。うん、とても。
どこまでも続いている海と砂浜と、海の中のお花畑を見ながらゆっくりと前に進む二人は船に乗っていたのだろうか。
あ・・ここは! この先には確か・・
「ねえ、前に一緒に来たことあるよね」
そういいながら後ろにいる彼の顔を見ようとしたところで目が覚めた。
・・◆◇・・
顔は違うけど、この人はきっとあの人なんだと自分が認識しているっていうこと。夢では、よくあることだ。
きっと今回の夢は、眠りにつく前にこのイケメン俳優が出ているドラマを見ていたからなのだろう。
その日に起きた出来事や考えていることがそのまま再現されたり、全く違う形で不思議な展開で進んでいくこともある。夢の中では何でもありだ。
目覚めてしばらくしても、私の背中にはほんのり温かさが残っていた。心の中は幸せで満たされていた。
ああ、あの頃と同じ幸せな気持ち。
会いたいな。あの頃の二人に。
中途半端に閉めたカーテンの隙間から、まあるいお月様がみえる。月明かりが揺れて見えたのは、涙のせい?
カーテンを引いて、ベランダのドアを開けてお月様をちゃんと見つめた。
背中の温かさは、眠っている私の背中を月明かりがゆっくりと照らしてくれていたからなんだろう。
そうだよ、ね。
(おわり)