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  1. 創作ストーリー

〔短い物語〕60歳の受験生

久しぶりに見上げた空は、穏やかな青色をしていた。このところ、ずっと下ばかり向いていたせいか、生まれたばかりの春の日差しはとても眩しく感じる。節分を迎えたばかりだが、穏やかな天気が続く今の時期、僕の中ではもう春の訪れなのだ。

「ねえ、今日はとてもいい天気よ。少し散歩でもして気分転換すれば?」
「ああ、そうだな。それもいいね。君も一緒に行くかい?」
「あら、昨日言ったでしょ?久しぶりに寿美とランチするって。私はそろそろ出かけるから」


昼ご飯は、冷蔵庫に入れておいたからちゃんと食べてね。夕方には帰るけど、洗濯物は取込んでおいてね。それから・・・。と、妻はいくつかの私への要求、いやお願い事を言いながら、ふんわりとしたコートに似合う帽子をあれこれ試している。

「よし。これにしよう。じゃ、行ってきます。あとは、よろしく!」


妻はいつも元気だが、私抜きで出かけるときはさらに元気でおまけにご機嫌ときている。ちょっと悔しいが、僕は僕でやりたいことをやっているから文句は言えない。

実は、この年になって一つ大きな挑戦を始めたのだ。もう一度、大学生をやり直す。若いころ叶わなかったあの大学で本当に学びたかったことを学ぶために。
僕の挑戦を妻は気まぐれだと思っている。受験のことを伝えたときの妻のリアクションはこうだった。


「あ、そう。がんばってね」


え?それだけ?いろいろ言いたいことあるだろうに・・。

僕への関心が薄れている?

まあとにかく、猛反対されなかったから僕はすぐさま受験勉強を始め、ちょうど2年たった。来週、いよいよ本番だ。

結婚して30年以上過ぎた夫婦は、形式的な会話すらしなくなることもあるらしい。熟年離婚も珍しいことではなくなってきた。とはいえ我が家の場合、子供に恵まれなかったこともあり、それぞれの時間と趣味を大切にしながら程よい距離を保ってきたおかげでおおむね夫婦関係は良好だ。

今日は別行動になってしまったが、2人で食事や小旅行へ出かけることもよくあることだ。

けれど、今年、もし合格して本当に僕が大学生になったら妻と僕の関係性は変わるのだろうか。お金のこと、仕事のこと、お互いの健康のこと。考えなければいけないことはたくさんある。

まあ、なるようになるさ。そんなことを思いながら歩いていると、早咲きの桜の木が目に映った。まだほとんどがつぼみだが、日当たりのよい枝はつぼみよりも開花した花が目立つ。

つぼみは僕にとって希望の象徴だ。目の前に課題が何かあって、それに向き合った結果解決の道筋が見えて、ついに「やった、クリア!」という瞬間が訪れる。それは、固く閉じていたつぼみがほころびた瞬間に似ている。わからないことだらけの勉強も、点と点が線としてつながる瞬間があって、一気に花開いた感覚がたまらなく爽快だった。

この2年の間も、躓いて、立ち止まって、どうにも身動きできない。そんな日はたくさんあったが、近い将来にはきっと懐かしくいとおしく思えるのだろう。

さて、お腹がすいたから家に帰るとしよう。冷蔵庫の中で妻のお手製ランチが僕を待っているから。

ランチ後の眠気を吹き飛ばし、さあ、あともう少とだと気合を入れ直し机に向かう。気が付くといつの間にか夕方になっていて、慌てて洗濯物を取り込んでいるところに妻が帰ってきた。


「おかえり」
「ただいま。あなた、これ、どうぞ」

妻の白く柔らかい掌には、「合格祈願」と書かれたピンク色のお守りがあった。

お守りには桜のつぼみのような小さな鈴がついていた。


「来週、がんばってね。きっと大丈夫。信じているから」
「あ・・ありがとう」

妻の手から僕の手に渡されたピンクのお守りを見つめていると、午前の散歩で出会った桜のつぼみを思い出した。

つぼみは希望の象徴。

来週の試験はきっと、うまくいく。心から僕にもそう思えた。

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