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当たり前を意識しない事への罪悪感

こんにちは。あやのはるかです。4月の終わりごろから1ヶ月と少しの間、毎週水曜日に自由大学さんの「自分の本を作る方法」を学ぶ講義に参加していました。

その時の課題のひとつとして2000字程度で文章をかくというものがありました。

本来ならば、自分が作りたい本のサンプル原稿を書く方がよかったのですが、私は亡くなった父とのエピソードを書いてみました。

せっかく書いたので、自分のブログでもご紹介させてくださいね。

タイトル「当たり前の価値に気づくことが出来なかった罪悪感」

存在が当たり前すぎると、そのことを意識しないで毎日過ごしてしまいます。当たり前の存在がいつかは存在しなくなる。そうなったときに「もっと大切にしておけばよかった」と悔いが残ってしまうというお話です。

平成8年の8月に亡くなった父とのエピソードになります。

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桜の季節は、特別な季節。もう会えなくなった大切な人との時間を懐かしみ、いま生きていることに一番感謝ができる季節からだ。

「また、いつか」といって友人や両親と別れた後、その「いつか」という日を永遠に迎えることが出来なかったという経験があなたにもあるのではないだろうか。今日は、自分自身のそんな経験について話したいと思う。

見えない力が与えてくれた父との時間

なぜ嫌いになったのか決定的な理由は覚えていないが、私は幼少のころから父のことが大嫌いだった。ずっと父とは距離を置き、大人になってからも2人きりになって話したことはない。結婚して家を出てからは子育てで忙しい事を言い訳に、実家にはほとんど寄り付かなかった。

ところが、結婚して6年目を迎えた平成8年4月のある日のこと。なぜかその日、実家に行かなければならない気がした。2人の息子たちのことは16時に保育園に迎えに行けばいいから時間は十分ある。

パートの仕事は休みだったので、すぐに出かける支度をしてバス停に向かった。バスを降りて、実家近くのスーパーで食材を買い込んだのは、昼食を作って父と一緒に食べようと思ったからだ。

ただいま・・・実家の玄関のドアを開けると父がびっくりした様子で奥の部屋から出てきた。娘が孫も連れずに突然実家へ帰ってくるなんて、何事かと思ったのだろう。

「材料買ってきたよ。何か作るから、昼ごはん一緒に食べよう」
「ありがとう。今日は食欲がないからいいよ。それより、花見に行かないか」と父が言った。
「うん、いいよ。私はお腹空いたからご飯作るね。少し待ってね。」

その時何を作ったのかはもう覚えていないのだが、台所に立つ私の背中に向かって父は私にある提案をされたことは覚えている。

最初で最後の春の1日

実家から歩いて10分ほどの公園には桜の木がたくさん植えられている。敷地の5分の一を占める大きな池があり、菖蒲の花が有名な公園で、小学生のころまではよく遊びに行っていた場所だった。中学生になってからは行かなくなったので、本当に久しぶりだった。

公園は以前とは違って整備が進みずいぶん様子が変わっていた。平日の昼間なのに満開の桜を楽しむ人がたくさん来ていた。私たちは出来るだけ人がいない場所を選び、桜の木を見上げた。

「綺麗だね。来年はみんなで来ようね。」
「そうだな。来年も見たいな。」と、つぶやくように父が言った。

父と2人で花見に行ったのは、この日が初めてだった。その時、来年は父がここへ来られなくなるとは思いもしなかった。

父は、私が小学生になってすぐに難病を発症して、長期入院していた。退院後も、数年ごとに入退院を繰り返し、服用していた薬の影響で足が不自由になり、安定して働くことは出来なくなった。

花見に行った時も肝臓の状態が良くなかったのでまた近々入院することになっていた。でも1カ月もすれば退院して趣味の野菜作りを楽しみ、店を開店するための準備で動き回ることだろう。今までもそうだったのだから。

父からの提案

4月の終わり頃、父は予定通り入院した。今回は長期の入院になりそうとのことだったが、7月の誕生日前に一時的に退院の許可が出た。

担当医師からは「いま、こうやって会話や食事が出来ていることが奇跡。だから、身体の状態が良いうちに一度自宅で家族と過ごす時間を」と言われていたらしい。そのことを私は知らされていなかった。

60歳の誕生日を祝った翌々日、容体が急変して再び入院した。それからは日に日に元気がなくなり、8月7日に父は亡くなった。

父は4月に入院する前から、自分の身体の状態から残された人生がもう長くはない事を感じていたのだと思う。だから、娘に嫌われていることは分かっていたが、あのような提案したのだろう。

「そうだ、料理を教えてやろうか。グラタンやポタージュ、煮豚も。」
「え?今はいいよ。また、いつかね。グラタンも煮豚も作れるから。」
「いや、プロの作り方は家庭用とは違うから・・。」
「レシピノートあるのでしょ。それを見せてくれたらいいよ。」

父とあまり話をしたくなかった私は、提案を断った。またいつかその機会はちゃんとやってくると思ったからだ。

「またいつか」と「当たり前」が幻になった

洋食の調理師だった父は、よく「煮豚」と「パンプキンポタージュ」を作ってくれた。何度も食べたその味を、父が亡くなってから私も調理師の兄も何度か挑戦したが再現できない。

私は未だに、外食で父の味を超える煮豚やパンプキンポタージュ、洋食を食べたことがない。あれは父にしか出せない味、幻のレシピだったのだ。当たり前だと思っていたその味を創りだすことの価値に、父が亡くなって初めて気づいたのだった。

何故、あの日素直に料理を教えてもらわなかったのだろうと、本当に悔やまれる。
奇跡とは言わないまでも、当たり前だと思っているほとんど事はどれほど幸せなことなのか。そのことを私はすぐに忘れてしまう。

もし父が生きていたら今年83歳。難病を患わなければ、多少の不調を抱えていたとしても平成という時代の終わりを見届け新しい時代の風を感じることもできただろう。そして私の料理に「やっと、上手になったな。合格!」と言ってくれたかもしれない。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

あやのはるか

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