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気持ちが揺らいだ日
その日の夜、朋ちゃんに会えることと冒険にでるチャンスがやってきたことがとても嬉しくて僕はなかなか眠れなかった。
猫は夜行性なので、本来昼はウトウトしたり、ゴロゴロしたり、のんびりしていて、夜に元気にが出てくるものだ。僕はなぜか猫本来のリズムと違っていたのだが、高揚した気分のおかげで、本来の猫リズムに戻ったようだ。
外が明るくなってきたが僕は頭がぼんやりしているので、ゴロゴロしていた。あきちゃんが僕の所へやってきた。
「おはよう。なんだ、今日は僕よりもお寝坊さんだな。朝ご飯だよ。食べたら朋ちゃんを迎えに行ってそのまま新しい家を見に行くよ」
ご飯を食べていると、あきちゃんが大きなカバンを持ってきた。どうやら僕は今日、その中に入れられて外に出るらしい。リュックサックみたいな形をしたその大きなカバンの中はなんだか居心地が悪そうだった。とはいえ、中から外を見ることは出来るようだから安心した。
「心配するな。移動中だけだから。新しい家に着いたら、家の中で自由に走り回っていいからな。朋ちゃんにもたくさん遊んでもらいな。だから、ちょっとだけ我慢してくれよな。」
気が進まなかったけど、あきちゃんが用意してくれたカバンの中に僕は入ってみた。意外と快適だが、長時間ここにいることを考えると気が滅入った。けれども1日中入っているわけではないし、早く朋ちゃんに会いたいからおとなしくしていようと思った。
カバンに入り、あきちゃんと一緒の短いドライブが始まった。しばらくすると車が止まって、朋ちゃんが乗り込んできた。
「こんにちは。久しぶり。元気だった?」そう言いながら、朋ちゃんは僕が入っているカバンを覗き込んだ。僕は嬉しくてバタバタしたけれど、車の中ではカバンから出してもらえなかった。
新しい家に着いた。僕はあきちゃん・朋ちゃんと一緒に家の中に入った。窮屈なカバンから出してもらい、僕は、家の中を動き回った。
新しい家は本当に広くて、今までのところとは比べ物にならない。階段があって上に行くこともできる。ベランダもいくつもある。天井も高くて、外も良く見える。
朋ちゃんも、広くて明るいこの家をとても気にいっているようだ。あきちゃんと朋ちゃんがじっくり相談して決めた家だからあたりまえなのだけれど。
「ここは、お前専用の部屋だよ。これから、お友達も増やしていく予定だ。何匹くらいお友達が欲しい?」
え? 友達と一緒に住めるの? 朋ちゃんも一緒になることだし、にぎやかになる。これまで以上に幸せな猫生を送ることができるじゃないか! ただし、限りなく広い場所で自由に動き冒険をするという夢はかなわなくなるけれど。
新しい家はとても素敵だった。あきちゃんの猫である僕への心遣いもとてもうれしかった。
あきちゃんの話を聞いて、僕は冒険に出ようと思っていた自分の気持ちがとても悪い事のように思えてきた。だけど、引っ越しをしてここを離れる前に、ケンに会ってちゃんとお別れを言いたい。
ケンに会いたいけれど、新しい家を見に行った後、ケンが家に遊びに来なくなった。「あれが重なった」というケンの言葉も気になるし、ミキや地域猫たちの間に何が起こっているのも心配だった。
冒険に出かけるのはやめようと思った。けれども、ケンにお別れを言うためにほんの少し外に出るのはいいよね。それを決行するのは、引っ越しをする日しかないと僕は思っていた。
30分だけの冒険のはずが・・・
新しい家を見に行ってしばらくしてから、引っ越しの日がやってきた。あきちゃんの荷物はそれほど多くはないので、荷造りはすぐに終わった。朋ちゃんは、先に引っ越しを済ませて新しい家で待っているという事だった。
「また、窮屈な思いさせるけど、大人しくここに入ってくれよな」
あきちゃんがカバンのファスナーを開けようとしたとき、インターホンが鳴り引っ越し屋さんがやってきた。あきちゃんは、僕から離れて玄関の方へ行った。
「外に出るチャンスは、今だ!」
僕は、あきちゃんと引っ越し屋さんが話している時に、玄関近くに積んである荷物の物陰にそっと隠れた。引っ越し屋さんとあきちゃんが、僕が隠れていることに気づかずに部屋の奥に入っていったタイミングを逃さず、少し開いていた玄関から外へ飛び出した。
僕は、生まれて初めて、自分だけで外に出た。天井ではなく、頭の上には空が見える。外は家の中とは違う匂いがした。これがおひさまや草や埃の匂いなのだろうか。風も吹いているし、色々な音も聞こえる。
ケンから聞いた話を思い出しながら、すぐ近くだと聞いていた地域猫の集合場所を小走りで目指した。物陰にご飯を入れるための器が置いてあり、寝そべると気持ちよさそうな草が生えている小さな広場が見えてきた。
ケンから聞いていた場所はきっとここだ。 若葉が萌える木々がある素敵な場所で、いつも僕の所へ来てくれていたスズメ君たちが休憩をしていた。
少し離れた場所にケンではない目つきの悪いオス猫がいて、僕を見ている。
ケンはどこにいるのだろう?
スズメ君たちに尋ねてみようと思った時、「逃げろ!」と、ケンの声がした。びっくりして声の方向を見ると、離れた場所にいた目つきの悪いオス猫が僕に襲い掛かろうと向かってきた。
僕は、どこに逃げればいいのかわからなかったけれど、とにかく走った。息が切れそうになったとき荷台がある小さな車を見つけてその上に飛び乗った。襲い掛かろうとしてきたオス猫は途中で追ってくることを諦めたようだった。
さて・・と、広場に戻ろうと慎重にあたりを伺いながら荷台から降りると、ケンがいた。
「ケン! 会いたかったよ。さっきはありがとう。ところで、最近どうしていたの?」
「ちょっと色々あったんだ。それより、お前、家出してきたのか?」
「いや、実は今日引越しをするから君にお別れが言いたくて、少しだけ抜け出してきたんだ」
「そうか。遠くに行ってしまうのか?」
「新しい家に一度連れて行ってもらったけど、そんなに遠くではないみたいだった」
「じゃあ、スズメ君たちに引っ越しの車を追いかけてもらって道を覚えてもらうよ。また遊びに行くからな」
「ありがとう。また会えるんだね」
「飼い主さんが心配しているはずだから、早く帰れ。」ケンは、そういって、僕を家まで送ってくれた。
僕がさっき隠れていた車の荷台から降りてケンと話していた時には、引っ越しの荷物はすでに積み込みが終わっていた。あきちゃんは、僕が入るはずだった空のカバンを手に、居なくなった僕を必死で探していたようだ。何度も僕の名前を呼びながら。
けれど、引っ越し屋さんに促され、僕を見つけられないまま仕方なく車に乗り込んだ。
家に戻ったとき、あきちゃんと引っ越し屋さんが乗った車は、すでに出発してしまった後だった。僕は不安でいっぱいな気持ちと、あきちゃんに大変な心配をかけてしまったことの後悔で、泣き出してしまった。
「大丈夫。スズメ君たちに車を探して追いかけてもらうようお願いしておいたから。新しい家の場所を教えてもらって、お前は後からゆっくり行けばいいよ。スズメ君たちを待とう」
ケンはそう言って、僕を地域猫の仲間たちのところへ連れて行ってくれた。
ケンの仲間たちは、家猫の僕を温かく迎えてくれた。皆でご飯を食べて、地域猫の間で伝わる伝説についても教えてもらった。伝説については、家猫の僕には関係ないのかもしれないけれど、興味深い内容だった。
他に他愛のないこともたくさん話して、僕は今まで本当に恵まれた環境で幸せに暮らしてきたということを改めて実感した。
「慣れない場所で寝にくいだろうが、今日はゆっくり休め。ここへはさっきのたちの悪い野良猫も来ないし安全な場所だ。明日、スズメ君たちと一緒にみんなで新しい家に行こう。一匹だと危ないからな」
明日になったらあきちゃんに会える。新しい家での生活が始まる。ケンに挨拶もできたし、新しい仲間も増えることだろう。僕はたった1日だったけれど外での冒険を経験することが出来て、ケンたちのおかげで幸せな気持ちで眠りについた、
明日の朝起きたら、もうケン達に会えなくなってしまうことをまったく知らずにぐっすりと眠ってしまったんだ。ケン達は、先に眠ってしまった僕の事をどんな気持ちでみつめていたのか、今となっては分からない。