登場人物
- 貴田春陽(きだはるひ) /旧姓:若葉春陽(わかば はるひ) :主人公。
- 貴田智(きださとし):春陽の夫。
- 貴田勇希(きだゆうき):春陽と智の息子
- 貴田萌花(きだもえか):春陽と智の娘
- 間中優紀(まなかゆうき):春陽が想いを寄せる人
- 間中亜希(まなかあき)/旧姓:高橋亜希(たかはしあき)
- 若葉彰人(わかばあきと):春陽の兄
- 若葉恵梨(わかばえり):春陽の義姉(彰人の妻)
- 若葉陽一(わかばよういち):春陽と彰人の父
- 白井将治(しらいまさはる):barのマスター
- 岡本健太郎(おかもとけんたろう):焼き鳥屋の店主
- 貴田剛志(きだつよし):智の父
- 貴田加代子(きだかよこ):智の母
- 常田真紀(ときたまき):婦人服の店員
第一章 初夏の甘酸っぱい記憶
●家族の休日と幸せ
「ママ、行ってきます!パパ、早く行こうよ~!」
「勇希、迷子にならないでね。パパ、勇希の事お願いね」
「今日は、映画とその後のお楽しみのことしか頭にないから心配ないよ」
智は私の方を振り返り、のんきな笑顔で答えると玄関のドアを閉めた。
智と勇希は、自宅から歩いて十分の距離にあるショッピングモールへ一足先に出かけて行った。子供たちに大人気のアニメ映画を観るためだ。その映画は、大人にも人気がある作品で毎年春頃に新作が上演されている。
映画館の座席は確保済み。上映開始時間は決まっている。まだ時間は十分にあるのだから、そんなに慌てて出かけなくてもいいじゃないと私は思う。とはいえ、少しでも早くその場所へ行きたい気持ちは映画好きの私にはよく解る。
映画館はショッピングモールに併設されていているため、週末はとくに混雑している。勇希はこの春から小学生になったのだが、まだまだ行動が予測不可能だ。何かに興味をそそられると、急に走り出して行方不明になる。平日とは桁違いの混雑の中に紛れてしまったらお手上げだ。
いつのまにか常連になりつつある迷子センターへ勇希を迎えに行くと、心配でひどく動揺している私とは対照的に、本人はいつも何事もなかったかのように落ち着いて座っている。
私の顔を見て嬉しそうに駆け寄ってきた息子に抱き付かれると、手のひらに握りしめていた怒りの感情はすっと消えてなくなってしまう。そしてすぐに許してしまうのだ。
今日はずっと楽しみにしていた映画をパパと一緒に観ること、その後に大好きなアイスクリームを買ってもらえることが分かっているから迷子の心配はないかな。
智と勇希が出かけて静かになったリビングで、私はおむつの予備や着替え、水分補給のドリンク、ウエットティッシュなど、必需品を忘れていないか確認をした。そうそう、御手洗いもちゃんと済ませておかなければ。
赤ちゃん連れの外出は荷物が多くて何かと不自由さを感じるものだ。けれど、手がかかる時期はあっという間に過ぎていき、それは後から取り戻せない宝物のような時間だということを私は知っている。つい愚痴が口から溢れそうになったら、上を向いてやり過ごす。
「さあ、萌花もママと一緒におでかけしようね」
五ヵ月になった娘の萌花をベビーカーへ寝かせて、智達より十分ほど遅れて家を出た私はショッピングモールの隣にある公園へ向かった。萌花の首が座った頃から、雨の日以外はベビーカーを押してよくこの公園へ来ている。
いつものように萌花に声をかけながら自然の森エリアを散策しているとき、時折見かける愛犬を連れた女性と目が合ったので、軽く会釈をした。
お気に入りのベンチがある場所まで行くと、ベビーカーにストッパーをかけてゆっくりとベンチの真ん中に腰かけた。時計を見ると、映画が終わる時間まで二時間近くあった。
ベビーカーの中では、四日前に初めて寝返りをした小さな天使が、口元を少し緩めて可愛らしい寝息を立てている。親ばかだとは思うが、萌花は世界で一番かわいい天使だと私は信じている。もう一人の天使は・・、いえ、もう天使ではないやんちゃ坊主はパパと一緒に映画を楽しんでいる事だろう。
ずり落ちて萌花の足元に追いやられてしまった桃色のタオルケットをそっと掛け直し、柔らかい頬にそっと触れた手から伝わるほんわりとした幸せを私はかみしめた。
(つづく)